慶應大生はどうして服を脱ぐのか、知られざる創立者の素行




皆さんは慶應大学に通っている学生にどんなイメージをお持ちだろうか。

おそらくお坊っちゃまというイメージを持っている人と同じぐらいの割合で、昨今の集団強姦事件などの影響で「すぐに脱いでしまう」モラルのない人たちというイメージを持っている人もいるだろう。(ちなみに2009年には、横浜市港北区の東急東横線日吉駅構内を慶應大学の学生が全裸で走り回ったなどとして、 公然わいせつ容疑で書類送検されてもいる。)

そんな慶應大学で裸になるルーツとなっている、創設者・福沢諭吉の記事を紹介しよう。

型破りな逸話が多い福沢諭吉

福沢諭吉(1835-1901)と言えば、慶應義塾大学の創設者にして、啓蒙書『学問のすゝめ』を書き残したほか、長らく1万円札の「顔」を務めるなど、あまたいる日本の偉人のなかでも、最も有名なひとり。

あの厳しい表情で「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」などの名言を残したと聞くと、さぞや重苦しい雰囲気の人物のように思われるが、さにあらず。

彼の人生は、豪快なエピソードに満ち満ちている。例えば、幼少期から大酒飲みで母親を辟易させたとか、仲間に鯛の味噌漬けと偽って毒を持つフグを食べさせてみたりとか、型破りな話に事欠かない。

強烈な全裸グセ

20代の前半、蘭学を学ぶことを志した諭吉は、大坂の蘭学者・緒方洪庵が主宰する適塾の塾員として、塾舎に住みこんでいた。

大坂といえば夏は猛暑。耐えかねた諭吉は、塾舎の二階にある居室では、ふんどしも下着も何も着けず、「真裸体」で過ごしていたのだ。

江戸時代と言えど、毎日、全裸で生活する奴というのは、相当な変わり者だったに違いない。

しかし、そんな諭吉が「全裸グセ」で巻き起こした大失敗がある。

ある夜、諭吉が塾舎の二階で寝ていると、下の階から「福沢さん福沢さん」と呼ぶ声がする。夕方酒を飲んでうとうとしていた福沢は「うるさい下女だ。今ごろ何の用だ」と思いつつ、いやいや起き上がり、真っ裸のまま階子段を飛び降りた。

「何の用だ」といらだちを隠さずに言い放ったところ、目の前にいたのは下女ではなく、なんと師・緒方洪庵の奥さんだった。

師匠の奥さんに全裸を晒すという狼藉。諭吉が焦りに焦ったのは想像に難くない。

真っ裸のまま、お辞儀も出来ず、さりとて逃げ出そうにも逃げ出せず、ジッとその場で凍りついてしまった。

諭吉は恥ずかしさのあまり翌日謝りに行く事もできなかった。そのことを時折思い返しては、生涯悔い続けたという。




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